株式会社下堂園

株式会社下堂園 <鹿児島茶を全国へそして世界へお届け致します。日本茶の喫茶店 ティースペース ラサラ>

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株式会社下堂園設立――世界へと展開
創業者・實亡き後の苦境を乗り越えた下堂園は、その後も全社一丸となって、鹿児島茶の販路拡大、需要増にまい進していきました。小売店様からさまざまな要望を聞き、その要望に応える茶葉を探し、生み出し、提案する。まるでオーダーメイドのようにして、一店一店、決め細やかに対応していきました。創業者である實と妻・ユリが、高麗町のお店でしていた商いを、そっくりそのまま大きくしたようなやり方だったといえるでしょう。

下堂園のDNAをしっかりと受け継ぎつつ、さらに多くの皆様と信頼関係を築きあげた結果、茶業界では、次第に鹿児島茶が、そして「ゆたかみどり」の名が広まっていきました。それにあわせて、会社の売り上げも順調に拡大。「有限会社下堂茶舗」は、1991年(平成3年) 2月、「株式会社下堂園」へと組織変更するにいたります。

同じ頃、下堂園は、会社として新たなステージを迎えました。株式会社化の前年、1992年(平成4年)から、ヨーロッパを中心に海外取引をはじめたのです。この海外進出は、さまざまな偶然から、もたらされたものでした。

きっかけは、とある食品見本市。ヨーロッパで開かれている、「SIAL」という世界有数の見本市に、毎年出展していたとある日本企業がいました。しかし、1990年のパリ開催展から、事情によって出展できないということに。とはいえ、そのスペースに穴を空けるわけにもいきません。そこである種、ピンチヒッターとして、下堂園に声がかかったのです。

社長の豊に話を持ちかけてきたのは、旧知の県会議員。「なんとか下堂園で展示をしてもらえないだろうか」と請われたものの、豊は正直、あまり乗り気ではありませんでした。「海外で日本の緑茶が受け入れられるものだろうか」と、不安に感じていたのです。しかし、困った表情の知人を前に、すげなく断ることはできません。かくして、1990年(平成2年)、下堂園は「国際見本市SIAL1990(パリ・国際食品展)」に、初出展を果たします。こうして海外デビューを果たした下堂園でしたが、パリの見本市では残念ながら、ほとんどのバイヤーが緑茶に興味を示しませんでした。

「やはり、緑茶はヨーロッパで受け入れられないのだろうか」
社長の豊と専務の洋には、次第に悔しい思いが広がっていきました。ここで止めてしまえば、ヨーロッパにおける緑茶市場は、何も変わりません。諦めずにもう一度、出展しよう。そう決意し、さらに翌年、ドイツで開催された「国際見本市ANUGA1991(ケルン・世界食品メッセ)」に出展したのです。この会場で、1人のドイツ人、マークス・ハステンプフルクと出会います。

当時、自然食品の会社でバイヤーをしていたマークスは、はじめて見る「ゆたかみどり」に、驚きました。独特な味と香り、鮮やかな水色。マークスは「ゆたかみどり」との出会いを、「まさにマジックウォーター。ひと目で恋に落ちた」とまで賞します。

しかし、彼がそこまで驚くのには理由がありました。当時のドイツで売られていた緑茶は、ほとんどが黄色みがかり、濁った中国茶。赤い紅茶、黄色い中国茶のなかにあって、鮮やかな透明の緑色をしたそのお茶は、「あるはずのないお茶」だったといっていいでしょう。「ゆたかみどり」を高く評価したマークスは、国際見本市に出向いていた専務・洋と意気投合。緑茶についてさまざまな意見を交わし、また会うことを約束します。この出会いが、下堂園の海外進出を決定付けたのです。

ドイツの厳しい残留農薬審査
その翌年となる1992年(平成4年)から、さっそくマークスが勤める自然食品製造販売会社との海外取引がはじまりました。とはいえ、当時の社内には英語に堪能な人材がいません。専務・洋は、海外取引が決定してから英語を学び、最初は取引先へのメール返信に2・3日かけていた有様。とても効率的な方法とはいえませんが、「ゆたかみどり」を進化させたように、すべてを「まずは自分たちの力でやってみる」というのが下堂園流です。わからないことだらけだった海外取引についても、自分たちの力で一歩一歩、独自のノウハウを築いていきました。

ところが、取引を進めていくと、一朝一夕には越えられない、大きな壁にぶつかります。それは、ドイツの残留農薬規制。それは、日本とは基準の異なる、非常に厳しいものだったのです。日本では普通に販売されている「ゆたかみどり」も、そのままではドイツの審査に通らない。当然、審査を通らなければ、販売もできません。

もちろん、ドイツの規制が厳しいことは、当初から懸念されていました。しかし、一体、どの商品が、どういう理由でダメなのか、審査に出してみるまでわからないという状態。あるときなど、取引が半ばまで進み、あとは出荷したお茶をドイツで袋詰めすれば……、という段階で消毒液が検出され、返品されてしまったこともありました。

おいしさをそのままに、海外の厳しい規制をクリアする。
安全にこだわったお茶を作る――。
この目標を達成するため、下堂園は大きな決断を下します。それは、有機栽培に取り組むこと。ドイツの残留農薬規制をクリアするだけでなく、厳しいことで知られるEUの機関から、「有機栽培茶」として認証を得ようというのです。

系列の契約農家さんと力をあわせてはじめた、有機栽培への取組み。しかし、当然のごとく、栽培は難航を極めました。開始から2年で、虫が大量発生し、葉は病気で痩せ枯れていく。農家さんとは、「原料を市場価格の2割り増しで買い取る」と約束したものの、これでは収穫もままなりません。

また、年に1度来日する、EUの検査官受け入れにも苦労しました。認証を得るためには、茶農園から生産工程まで、お茶作りの全工程を見せ、チェックを受ける必要があるのです。しかも、飛行機代から宿代まで、チェックにかかる費用はすべて、下堂園の自腹。

生産がうまくいかず、認証を得るための費用もかさむばかり。それでも豊と洋は諦めずに、契約農家さんとともにさまざまな改善を繰り返して、有機栽培に取り組み続けました。創業者・實が、諦めずに「ゆたかみどり」を素晴らしい茶葉へと導いたときと同じように。

その粘り強さで、有機栽培着手から3年目の1995年(平成7年)の10月には、念願のEUオーガニック認証を取得。4年目、5年目を迎える頃には、安定した収穫量を確保できるようになり、下堂園の海外進出は、熱を帯び始めます。

自社農園「ビオ・ファーム」設立。有機栽培への道のり
このとき社長の豊は、冷静に次の一手を考えていました。それは、この数年で培った有機栽培のノウハウを持ってして、「下堂園が全てを管理する、有機栽培農園を持つべきではないか」ということ。

契約農家さんの畑でも、安定した収穫量を確保できるようになってはいました。しかし、海外取引が活性化すれば、その量ではとても足りません。それに、当時から有機栽培の案件は、増加傾向にありました。下堂園としては、この新たなビジネスチャンスに、取り組まないわけがありません。

だからといって、管理が難しく、採算が合うかどうか不安な有機栽培農法を、さらに沢山の農家さんにお願いできるものだろうか――。豊は悩んだすえに、下堂園の責任において管理できる、新たな農園を持つべきだと考えたのです。

しかし、その考えに、強く反対した人がいました。豊の実母であり、創業者・實を支え続けたパートナー、ユリです。

「いままで茶農家さんから買ったお茶でやってきたのだから、生産までする必要はないわ」
「茶商が生産までするのは、茶農家さんに失礼」

ユリの意見は、どれももっともなものばかり。もちろん、豊も重々承知していることでした。お茶を扱う“茶商”が農園を持つことは、なかばタブー視されている状態。同業の茶商たちからも、「茶商が農園を、しかも難しい有機栽培の農園を管理することなんてできるわけがない」といわれ、豊は決断まで悩み続けることになりました。問屋業から生産業への転換は、それほどまでに強い覚悟が必要なものなのです。

それでも豊は、鹿児島茶の未来を作るために、自社農園が必要だと決断。1998年(平成10年)2月、下堂園は鹿児島県川辺町に、自社農園「農業生産法人有限会社ビオ・ファーム」を設立します。

悩みに悩み、茶業界のタブーを押し切ってまで作り上げた有機農園「ビオ・ファーム」。社長・豊の思いが詰まったこの農園は、ヨーロッパ向け有機栽培茶の生産地としてだけでなく、下堂園がその後生み出すさまざまな新商品の企画・開発を担う、大きな存在になっていくのです。




ドイツに「下堂園インターナショナル」設立。「KEIKO」ブランドの展開
有機栽培への道のりがひらけたその年、時を同じくして、自然食品の会社でバイヤーをしていたマークス・ハステンプフルクが会社を離れ、独立。1998年(平成10年)10月、自然な流れで下堂園とマークスは、マークスを社長に迎えたドイツ現地法人「下堂園インターナショナル」を、折半出資にて設立します。これでようやく、下堂園の海外進出、その準備がすべて整ったわけです。「国際見本市ANUGA1991(ケルン・世界食品メッセ)」でマークスと専務・洋が出会ってから、実に7年の月日が流れていました。

下堂園インターナショナルは、設立後すぐに商品を展開していきました。先陣を切ったのは、緑茶ブランドの「KEIKO」シリーズです。


先述したように当時のドイツで出回っていたのは、黄色く濁った、中国産の緑茶でした。しかし、価格はどれも安価。一方、「KEIKO」のグリーンティーは、中国産の4・5倍はする高価格帯に属します。それでも、さわやかで鮮やかな緑色をした、まろやかなおいしさの「KEIKO」ならば必ず受け入れられると、豊も洋も、そしてマークスも自信を持っていました。

追い風が吹くようにして、「KEIKO」の名を、ヨーロッパに広める出来事が起こります。ドイツの商品検査誌「テスト」に、輸入茶の残留農薬検査結果が掲載されたのです。もちろん、有機農園ビオ・ファームで生産された「KEIKO」からは、まったく農薬が検出されませんでした。一方、ドイツで流通していた中国産のお茶からは、大量の農薬が検出されたのです。食品の安全性が厳しく問われるドイツで、この結果は衝撃を持って受け止められました。同時に、「KEIKO」に対する消費者の信頼は、一気に高まったのです。