お茶「ゆたかみどり」を主力商品に、さまざまな商品を展開するお茶の「下堂園」。長い年月をかけ、お茶とひたむきに向き合ってきた結果、いまでは日本全国、さらにはヨーロッパやアメリカをはじめとした、海外のお客様にもご愛顧頂けるようになりました。
いつも、いつまでもお茶と共に歩む私たち。
その歴史は、1954年(昭和29年)3月にまで、遡ります。
温暖な気候の鹿児島県鹿児島市高麗町。その地で、当社は創業いたしました。創業者の名は下堂園實。生涯を茶業にささげた男です。
江戸時代、島津藩が茶葉の生産を奨励したことをきっかけに、鹿児島では昔から茶葉の栽培が行われていました。現在では、静岡に続いて全国2位を誇る、“茶所”となっています。
鹿児島は金峰町白川(現・南さつま市)に生を受けた實も、成人するとすぐに、茶業の盛んな地元で農協連(農業協同組合連合会)に就職。茶の栽培・製造を指導する技術者として、生産農家を回る忙しい日々を送っていました。
しかししばらくすると、實は茶の販売方法や考え方をめぐって、農協連に疑問を持つように。悩んだ末に、實は独立を決意します。技術者として得た知識や農家とのつながりをもとに、高麗町の商店街で、お茶の下堂園を創業するのです。
独立した實を支えたパートナーは、誰あろう妻のユリでした。家庭を支える妻としてはもちろん、商いのパートナーとしても、ユリの存在は大きかったといいます。なぜなら、ユリは實を凌ぐ商売人だったからです。
当時の下堂園は、實が農家から茶葉を買い付けてお茶に仕上げ、それを高麗町のお店でユリが販売するという形で商いをしていました。ちなみに、このときの店舗が現在の「お茶の下堂園・高麗店」。高麗店は、下堂園にとってはじまりの地なのです。
ユリが茶を売っていたお客さんの多くは、「担ぎ屋さん」と呼ばれる人々でした。箱を担いで鹿児島茶を仕入れにくる、行商の方々です。彼らは、下堂園から買い付けた茶葉を、一般のお客様に売ることもあれば、他のお茶屋に卸すこともあるという、小売業兼卸問屋のような存在でした。ユリは、彼らによく、タダでお茶を飲んでもらっていたといいます。
「新しく入ったこのお茶はどう?ちょっと飲んでいってよ」
「じゃあ、一杯。うーん、こりゃ、今年は味が落ちたんじゃないかな」
店先では、毎日のように、お茶のプロとユリによる、率直なやりとりが交わされていました。そうして、彼らの正直な声を聞いたユリは、逐一、實に伝えていたといいます。
「このお茶、おいしくないってさ。もう仕入れてこないでよ。こんなの売れないわよ」
「そんなこと言うなら、お前が仕入れてみろよ!」
父と母がよく、茶葉をめぐって電話越しにケンカしていたと、2代目社長・豊は当時を振り返ります。しかしそれは、2人がお茶に対して、お客様に対して、真摯に向き合っていた証拠ともいえるでしょう。
お茶の売り手としてお客様の意見を仕入れるユリ。そして、技術者として茶葉を仕入れ、仕上げる實。まだまだ小さなお茶屋にすぎなかった当時の下堂園ですが、ユリの「調査(Research)」と實の「研究開発(Development)」が密接に機能して、商いは順調に進んでいきました。
しかし、全国的に見ると、当時の鹿児島茶は「安かろう、不味かろう」といわれて、見向きもされないような存在でした。静岡茶や宇治茶と比較して、「とても飲めたものじゃない」と。ですが、そうした評価を受けるだけの差があったのも、また事実です。静岡や京都といった茶所と比べ、後発である当時の鹿児島は、まだまだ茶の生産技術が確立されていない後進県だったのです。
鹿児島で近隣地域の人々から茶葉を仕入れていた實は、そうした評価を覆したいという思いを抱きながら、商いに精を出し続けました。そして創業から8年、1962年(昭和37年)2月には、ついに「有限会社下堂園茶舗」を設立するにいたります。
そのすぐ後、昭和40年代に入ると、高度成長社会を背景にしつつ、お茶の需要が全国で爆発的に伸びていきました。「安かろう、不味かろう」といわれた鹿児島茶も、需要が一気に増え、茶葉を扱う農家もそれにあわせて、爆発的に増加していきました。
それでも、「安かろう、不味かろう」という評価は相変わらず。鹿児島産の茶葉は、静岡産や宇治産の茶葉を水増しするための“増量剤”として使われていたにすぎません。いくら商いとはいえ、鹿児島の生産者たちにとっては、そこにぬぐえない思いが溜まっていったことでしょう。「自分たちも旨い茶を作りたい」「作れるんだ!」という思いが。