株式会社下堂園

株式会社下堂園 <鹿児島茶を全国へそして世界へお届け致します。日本茶の喫茶店 ティースペース ラサラ>

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昭和52年東京進出。創業者・實、突然の死去――
前述したように、昭和40年代は、茶の売れ行きが全国的に伸びていた時代。下堂園もその波に乗り、九州全域、さらには関西へと販路を広げていきました。
1972年(昭和47年)には、地元のお茶屋さんが沢山集まっていた鹿児島市南栄町に、茶業団地を開設。ちなみにこの茶業団地、現在では流通センターに姿を変え、下堂園を支える重要な役割を担っています。
続く、1974年(昭和49年)には、業界に先駆けて、会計処理用のコンピュータシステムを導入。同年、鹿児島市小松原に社宅6棟建設するなど、一気に拡大路線をひた走っていきました。そして、その時期、ついに「ゆたかみどり」が完成するのです。

売る商品はある。商いの力もついてきた。
いまこそ、地元・九州にとどまらず、全国へと展開する時だ――。

實は、東京への本格進出を決めます。その決断を後押ししたのは、後に専務として活躍する實の次男、下堂園洋の存在でした。当時、東京で広告代理店に勤務していた洋は、東京での立ち回り方、営業ノウハウを身に付けていました。その力を、家業の発展に注ぐことを決めた洋は、会社を辞めて下堂園に入社。その直後、1977年(昭和52年)3月には、東京都杉並区に東京営業所を開設します。東京都内をのみならず、関東、東北、さらには北海道へと、精力的に営業活動を行い、新たな顧客を獲得していきました。

当時の社員数は、まだ15人ほど。しかし、気づけば売り上げは15億を超える急成長をみせ、下堂園は大きな成功を手にしようとしていました。創業から数えて23年。有限会社設立から15年を経て、實が夢見た「鹿児島生まれの、日本一おいしいお茶」は、全国のお客様に愛される存在になろうとしていたのです。――ところが。
順風満帆に見えた下堂園に、晴天の霹靂ともいえる事件が起こります。

1980年(昭和55年) 11月。東京進出からわずか3年後。

下堂園の創業者であり、「ゆたかみどり」を味よく、香り高く、美しいお茶に導いてきた實が、突然の病に倒れます。診断は急性白血病。そしてその2週間後、まだ60歳という若さで、帰らぬ人となりました。

病床での引継ぎ。長男・豊の社長就任
實の跡を継ぎ、社長に就任したのは、長男・豊でした。親子の間で、「いずれは」という気持ちがあったにせよ、まさかこういう形で、しかも2週間というわずかな期間で、会社を譲る・担うとは、父子ともに思っていなかったでしょう。

實は、病に倒れてからも、枕元に豊を呼び寄せ「あの件はどうなったのか」「その取引についてはこうしろ」と、若き新社長に仕事の指示を与えていたといいます。本当に、最後のときを迎えるその直前まで仕事の話をしていたと、豊は当時を振り返ります。

病に倒れ、帰らぬ人となった父を見送った豊は、当時まだ32歳。隣で豊を支える、実弟の専務・洋もまだ、30歳。2人ともまだまだ若造でした。「この若者たちは、本当に下堂園を経営できるんだろうか?」という、取引先からの不安な目を、強く感じたといいます。しかし2人には、残されたものとしての、大きな責任と、強い決意がありました。

「父と鹿児島が作った「ゆたかみどり」を、もっと多くの人に飲んでもらいたい。そして、父の築いた信用を失わずに、会社を継続して、大きくしなければならない」

悲しみにくれる間もなく、2人はすぐに動き出しました。

「飲めばわかる」500万円をかけたサンプリング作戦
お茶ビジネスは当時もなお、東京をはじめ、多くの地域で、静岡茶の独壇場にありました。取引先であるお茶の小売店様には、「鹿児島茶など飲めたものではない」と、けんもほろろにあしらわれるばかり。しかしそれも仕方ありません。静岡茶はブランドであり、世間の評価は「静岡茶が日本一のお茶」。小売店の皆様にとって、静岡茶を扱うことは、1つのステータスなのです。

しかし、いつまでも小売店様にこう思われていては、一般のお客様に、鹿児島茶を知っていただく機会がありません。そこで、若き社長・豊と専務・洋は、ある方法を思いつきました。それは、一煎パックを小売店で無料配布すること。つまり、いまでいう“サンプリング”です。

いまでこそ、サンプリングというプロモーション手法は一般的ですが、当時としては大変目新しいものでした。当然、下堂園にとっても前例のない施策です。つまり、配布先の確保からパッケージングまで、すべてゼロから、自分たちで立ち上げていく必要がありました。

自動包装機すらない時代です。何万枚もの一煎パックに、社員が1袋ずつ手作業でお茶を入れていきました。10数名という社員たちで、それを全てやり終えようというのですから、考えるだけでも目眩がするような作業です。しかし、その作業はどこか、楽しさを感じるものでもありました。それは、「無料配布は必ず成功する」という予感があったからでしょう。

創業者・實によって完成した「ゆたかみどり」の味。その旨みと香りは、本当に「飲めばわかる」と言い切れるほどに、社員全員が自信を持てる、誇りに思えるものでした。その味を、一般のお客様に、直に届けたい。そうすれば必ず上手くいく。皆がそうした予感を持ちながら、ひとパックひとパック、丁寧に手作業で、お茶を詰めていったのです。

そして実際に、サンプリングが始まると、予想を超える大きな反響を生みました。

無料配布した「ゆたかみどり」を飲んだ、さまざまな人たちから、「おいしかったから、あのお茶がほしい」という声が聞こえてくるようになったのです。お店のお客様からそうした要望があれば、小売店様としも当然、対応せざるを得ません。

まさに、「飲めばわかる」。創業者・實の言葉通りの結果が生まれたのです。

「羽田空港集合」で生産地・鹿児島へ
サンプリングで成功を収めた、豊と洋は、合間を開けずに、新たな営業戦略を展開します。實が逝去した翌年となる、1981年(昭和56年)の新茶時期にあわせて、東京の取引先を何十人と、鹿児島に招待したのです。この戦略は「羽田空港集合・鹿児島ツアー」と呼ばれ、後に何度も行われることとなりました。

ツアーの目的はひとつ。
鹿児島の大地に広がる美しい茶畑を、お茶業界のさまざまな人たちに見てもらいたかったのです。

鹿児島茶を扱ったことのない人たちに、「ゆたかみどり」の味だけでなく、品質の良さを深く理解してもらいたい――。「飲めばわかる」ならぬ、「見ればわかる」という気持ちが、豊と洋にはありました。温暖な気候と、広大で肥沃な鹿児島の大地に広がる、この美しい茶畑を見れば、鹿児島茶の品質、その素晴らしさをわかってもらえるはずだと。

熱い思いで迎えた、鹿児島ツアーの初日。就任間もない社長・豊は、お集まりいただいた皆さんを前にして、思わず涙がこみ上げてきたといいます。父と、そして地元鹿児島の皆さんで作った鹿児島茶を味わいに、多くの人が来てくれた。その光景を前に、涙をこらえることが出来ませんでした。

それでも必死に言葉を紡ぎ、感謝の挨拶を述べる若き2代目社長の思いは、それまで鹿児島茶を取り合ってくれなかった小売店の皆様にしっかりと届き、その後、多くの取引先が東京に誕生することとなっていきました。

日本一早い!「七十七夜茶」
豊をサポートした実弟、専務の洋は、いわゆるアイデアマンでした。大胆な発想と行動力で、周囲を驚かせることも多かった洋。若い頃は、その大胆さでちょっとした騒ぎを起こし、創業者である父の實に勘当を言い渡されたという逸話も残っています(ちなみに、下堂園に入社するまで、その勘当は解かれていなかったそうです)。

熱い気持ちで会社を牽引する豊とは対照的に、どこか飄々とした佇まいの洋でしたが、頭の中では常に「次の一手」を考えていました。その1つが、いまでは下堂園の定番商品となっている、「七十七夜の走り新茶」です。

有名な茶摘み歌にもあるように、一般的には立春から数えて「八十八夜」で摘まれたお茶こそが、味の良い「新茶」だと知られています。ですが、温暖な鹿児島で栽培される「ゆたかみどり」は、早生系の品種。そのため立春から数えて七十七夜となる、4月20日頃が新茶の最盛期となります。

ここに目をつけたのが専務の洋でした。全国で八十八夜の新茶が出回る前に、「日本一早い走り新茶」として、鹿児島の「ゆたかみどり」をアピールしようと考えたのです。


これは、小売店の皆様にとっても、嬉しい試みでした。新茶の時期は、お茶屋さんにとってかき入れ時です。七十七夜の鹿児島茶を「日本一早い新茶」としてまず販売し、八十八夜のお茶を「いつもの新茶」として売る。こうすることで、新茶の時期に2回、売り時を作ることができるのです。

東京で代理店マンとして活躍していた洋には、「消費者の興味とともに、取引先のメリットを考えて、戦略を練る」という感覚が備わっていました。洋はその後もさまざまな面でアイデアを出し、社長の豊とはまた違う目をもって、下堂園を牽引していったのです。

その後も、若き2人のリーダーの元で、下堂園は鹿児島と東京を中心に、全国で販売量を増やしていくこととなります。