下堂園の創業者・實は、順調な商いで築いた地盤をもとにして、試行錯誤をはじめます。「鹿児島生まれの、日本一おいしいお茶」を作るために。そうして、さまざまな可能性を模索するうちに、1人の研究者と出会うのです。彼の名は岡村克郎。後に下堂園の顧問となる、茶業試験場の研究者でした。
当時の岡村は「茶葉の収量があり、収入が増える」という理由で、とある品種を茶農家に勧めていました。「Y-2」と記号的な名で呼ばれていたその品種は、1966年(昭和41年)に鹿児島県が「ゆたかみどり」と命名し、現在では当地を代表する茶葉になっています。
寒さに弱いという弱点を持つ「ゆたかみどり」ですが、霜の影響を受けない温暖な地域であれば、これほど安定した収穫量を見込める茶葉はありません。日本全国で親しまれる緑茶の主力品種、「やぶきた」よりも早く収穫でき、繁殖力がある茶葉「ゆたかみどり」。茶農家たちは、研究者・岡村の言葉に、大きな期待を抱きました。
ところが。「ゆたかみどり」を植え付けてから5年たち、はじめての収穫を迎えると――。色は赤みがかり、味は渋い……。とても緑茶とは呼べない、質の低い茶がそこにありました。多くの人が期待し、長い年月をかけて育ててきた結果が、「赤く渋い」お茶だったのです。
「このお茶、どうするんだ?」
「失敗じゃないのか――」
茶農家をはじめ、多くの関係者からは、そんな声が囁かれました。それは、實も同じこと。茶商として、仕入れから卸売業まで、まさに“茶の見極め”を生業としていた当時の實から見ても、「ゆたかみどり」はとても売り物になる味ではなかったのです。
実際、「ゆたかみどり」を初めて飲んだ實が、「こんな不味い茶、作るんじゃない! ひっこやせ!」と、岡村を一蹴したという逸話が残っています。
「ひっこやせ」とは、鹿児島弁で「ひき抜く」の意味。研究者・岡村と茶農家の努力を知った上でなお、この品種に時間を割くことは、地元にとって利益にならないと、当時の實は思ったのでしょう。
それでも、岡村は諦めませんでした。「ゆたかみどり」は必ず、鹿児島の地に適した、おいしいお茶になるという、研究者としての確信があったのです。当初は「ゆたかみどり」に強烈な疑いの目を持っていた實でしたが、「ひっこやせ」といわれてもなお、「やってやるわい!」と返してきた岡村の強い思い、熱意を目の当たりにすると、次第にその思いを変えていきました。
茶農家から仕入れたこの「ゆたかみどり」を、なんとかして、お客様に買っていただける「商品」にしなければ――。茶商であり、お茶の技術者である實には、ある確信がありました。火入れの加熱温度や茶葉の投入量などを工夫すれば、必ずお茶の香味は上がるはずだという確信です。
また、實には“確信”のほかに、切実な“事情”もありました。仕入れた茶葉を捨ててしまうことになったら……。そう、このままだと、實は大変な損を背負うのです。
實は、ゆたかみどりの火入れ加工、その改良に連日連夜、取り組みます。月日を、寝食を忘れるほどの日々。そんなある日、實は通常の加工より高い温度で、火入れを試みてみました。しばらくすると、加工室にはなんと、香ばしい香りが漂い始めます。
いままでにかいだことがないほどの香り。期待と不安が入り混じります。實は、頃合いを見計らって、火入機から茶葉を取り出し、さっそくお茶を淹れてみました。器に注がれた浸出液は、美しくも濃い、黄金色のお茶――。それを舌先に載せた實は、思わずこう叫びます。
「こりゃ、うんまか!!(これは、旨い)」
渋味はほとんど感じられない。それどころか、これまで味わったことのない旨味が、舌全体に広がったのです。實はすぐに電話へ走りました。
「岡村さん、ゆたかみどりが上級茶に化けた。もう、この木をひっこやすことはありませんよ」
当時、「ゆたかみどり」の評判は、芳しいものではありませんでした。そのため、「ゆたかみどり」の導入を推進し、生産拡大を図ってきた岡村は、生産者や茶商から孤立し、厳しい状況に立たされていました。その岡村に届いた、實からの吉報。これを機に、「ゆたかみどり」を、岡村を取り巻く状況は、一気に変わっていきました。
こうして、「ゆたかみどり」の抱えていた「渋さ」という問題は、解決されました。残る課題は……そう、色です。赤いお茶では、緑茶になりません。この欠点をいかにして克服するか。さまざまな実験を繰り返しいくなかで、實は「被覆」のやり方に解決の糸口を見つけます。
「被覆」とは、新芽が出る直前の5日間〜1週間程度、お茶の葉に黒いネットを被せること。この工程を、お茶業界では「被せ」と呼んでいます。こうすることによって、茶葉は美しい緑色へと色づくのです。
被せの期間を見極めるのは、実に繊細な作業です。短すぎれば、美しい緑色は出ませんし、長すぎれば、ムレたような独特のニオイが葉についてしまいます。茶農家には、「葉に緑色がのる直前という微妙な段階でネットを外す」という、細やかな気遣いが求められるのです。
当然ながら、被せの日数は、その年の気候や育成状況によって毎年変わります。そう考えると、「ゆたかみどり」にとって良い「被せ」のやり方、日数を探るということが、どれだけ大変かお分かりいただけるでしょう。
また、それ以外にも試行錯誤は続いていました。葉肉が厚く水分も多い「ゆたかみどり」の茶葉を乾燥させるためにと、風量の強い「南九州型製茶機械」を導入するなど、實はさまざまな実験を繰り返しました。そうして、およそ7〜8年の歳月をかけて、「ゆたかみどり」を完成へと導いていったのです。
後に、實の後を継ぐこととなる現社長・下堂園豊は、父の作り上げた「ゆたかみどり」、その完成品を口にしたときのことを、こう振り返っています。「香りが強く、力強い味わいのある、あのお茶を飲んだときの感動は、いまでも忘れられない」と。
長い年月をかけて「赤く、渋い」お茶という汚名を返上した「ゆたかみどり」。「味も香りもよく、見た目にも美しい」お茶となって生まれ変わったときにすでに、時代は1970年代半ばになっていました。
味も香りも良い茶葉として完成した「ゆたかみどり」は、現在も幅広い年代のお客様から長くご愛顧いただく、当社の看板シリーズとなっています。なかでも、お求め安い価格に、質良い味を兼ね備えた「千両」は、最も人気の商品。この「千両」には、命名にまつわる、こんな逸話が残されています。
製法が確立されてすぐの1970年代半ば、實は研究者の岡村とともに、「ゆたかみどり」のサンプルを持って、東京で開かれる商談会に出かけました。このとき、持参したサンプルは、長年、茶を見極めてきた實が「飲めばわかる」と自信を持って断言するほどの出来栄えだったといいます。この商談会を機に、東京から全国に向けて販路を広げていけるはずだ――。そんな期待と希望を胸に、實は精力的に商談をこなしていきました。
すべての商談を終え、心地よい疲れとともに帰途へ付いた2人。数日かけ、東京から鹿児島へと帰る、長い長い電車旅です。おそらく實と岡村は、車中で、この新たなお茶になんと名づけて売ろうか、いろいろと話し合ったことでしょう。
2人は、乗り換えのため、熊本の八代駅に立ち寄りました。帰郷の旅路もあとわずか。商談の緊張から離れ、穏やかな気持ちで駅を歩いていた實の目に、不意に赤い実が飛び込んできました。縁起物として正月飾りにも使われる千両の実です。
季節は冬。澄んだ空気のなか、何かに導かれるようにして、緑色の葉と小さな赤い実をいくつもつけた千両の木を目にした實は、次の瞬間、心に決めたといいます。
「このお茶を、千両と名付けよう」と。
後に、「百両」「萬両」とシリーズ展開されていくお茶「ゆたかみどり」の商品名は、このとき決まったのです。